『高校の同期のクリスマスパーティーに呼ばれなかった』 って言う内容を村上春樹風に書くとこうなる
去年のクリスマスの頃だったろうか。
うちの近所のドラッグストアで、高校の同級生とすれ違ったことがある。
お菓子やカップ麺なんかも売っている大きなドラッグストアで、彼女はそこにクリスマスパーティー用のお菓子を買出しにきたようだった。ケータイを耳に当て、買い物の相談を電話の向こうの誰かとしている声が聞こえたからそれとわかった。会話の中に出てくる固有名詞から、そのパーティーが高校の同期の集まりであることもわかった。
そこまでのことを把握しながら、そして彼女と数メートルの距離まで接近しながら、しかし、私は彼女に声をかけなかった。
かけるべきではない、と思ったからだ。
私がまだ同じ町に住んでいることを彼女たちは知っているはずだった。だから、彼女たちにその気があれば私にも連絡を寄越したはずだ。事実、辞めてからしばらくは同期会の報せは私のケータイにも届いていた。しかし、今回はその報せがなかった。
そうである以上、彼女たちは私とクリスマスを共にするつもりはない、と判断する方が賢明だった。だから私は黙ってその場を立ち去ることを選んだのだ。
そのすれ違いは一抹の寂しさを私に与えた。
切り捨てられたとか、嫌われたとか、そこまで卑屈になる必要はないのだろう。その時には既に私以外にもこの町を抜けて進学した同期はたくさんいたし、彼らは簡単には集まることのできない場所にいた。ならば残っている者だけで、と考えるのも無理のないことである。
しかし、それでも「また関係性がうつろっていくな」という実感は私の心を捉えて離さなかった。
思い返してみれば、私の人生はそのようなことの繰り返しでできている。
思い立ったら一人でふらっと行動することが多く、「誰それを誘おう」というような頭を基本的に持ち合わせない私は多くの場合「仲間」を持たない。そして、「学校」や「バイト先」、「職場」といった「箱」がなくなると途端に人に会わなくなる。だから、部活動などで一時的に親しくなっても、卒業したらそれっきりとなってしまうことがとても多い。今まで出会ったほとんどすべての人の人生からある時点で私はフェードアウトしてきたし、彼らをフェードアウトさせてもきた。
私を取り巻く人間関係は、常にうつろってきたのだ。
普段はそのことまったく意識しないし、恒久的な人間関係を築くべく努力しようという気もあまりないのだが、時折、このように寂しさを感じる瞬間がある。
根無し草であることに不満を持っているつもりはなくても、やはりどこかでゆるぎようのない連帯を求めているのだろうと思う。
あるいは寂しいという無意識の声を、ただ抑圧しているだけなのかもしれない。
以上他人のぱくりでした
と、色んな言い回しで内容の反復を行えると内容が薄っぺらくても、それっぽい文章が書けるよね(村上春樹のことを言っている訳ではない)
これは英文なんかにも通じると思うなー